南河内出身の中山久蔵って?北海道に稲作を広めた偉人を紹介!
お米の生産地と聞くと、北海道をイメージする方が多いのではないでしょうか。
実際、北海道のお米を代表する「ななつぼし」「ゆめぴりか」「ふっくりんこ」は、日本全国で有名で、日本穀物検定協会がおこなっている食味試験ランキングにて最高評価を得ています。
私達の暮らしにも馴染みが深い北海道のお米ですが、実は明治時代初頭までは稲作が禁じられていました。そのため、米を作る人は誰一人として存在しなかったんです。
というのも、寒さに弱いお米の稲は北海道には適さないという判断のもとでした。
この問題に人生をかけた偉人が「中山久蔵」です。
本日はお米の文化を語る上で欠かすことができない、偉人「中山久蔵氏」の話をご紹介します。
明治時代 北海道のお米のお話
明治初頭、未開の地であった北海道に本州から移民として大勢の武士と農民がやってきました。
農地を開拓をしようとやってきた農民でしたが、当初自分達が食べる物を作ることで精一杯だったといわれています。
また、開拓を進める者同士で、寒波が厳しい北海道では畑作と酪農を中心にするという決まりがあったため、米作りは禁止されていました。
明治時代初頭の北海道は、お米はよそから購入しないと食べれない貴重な食材だったというわけです。
こういった背景から人々は「お米を自分達で作りたい!」考えるようになりました。
そこで稲作を伝えた人物が後に農業の功績者として讃えられることになります。
稲作を広めた偉人「中山久蔵」の生い立ち
中山久蔵氏は、1828年大阪府南河内にて生まれました。
幼少期から農業に関する情熱と知識を持ち合わせ、農業改良に興味があったといわれています。
1871年、久蔵氏が45歳の時に南河内から北海道の北広島市に単身で移住しました。
稲作に情熱を燃やし、耐冷品種である「赤毛」の作付に挑むためです。
こうして北海道の地で本格的に稲作がはじまることになりました。
中山久蔵氏はどうやって北海道で稲作をおこなったのか
実はお米の稲は温かい水がないと発芽せず、田んぼに植えることはできません。
加えて、田んぼに引く水も、水温が低いと苗が育たないため、久蔵氏はお風呂でお湯を沸かし、寝る間を惜しんで徹底した温度管理を続けました。
次に、川から直接冷たい水が入らないよう温水路を作って日光を長時間当てながら水を温めるシステムを2年かけて作りあげたのです。
こうして粘り強くお米と向き合った結果、「赤毛種」を収穫することができました。
久蔵氏はこの結果に満足するだけでなく、更に寒さに強い品種を作るため努力を続けます。
また、お米を作るだけでなく、希望する人には無償で種を分けたり、米作りの技術を地元住民に教えました。
中山久蔵氏は明治天皇にも評価された
米作りの功績から指導的立場になった久蔵氏に転機が訪れます。
1881年の明治14年に明治天皇が北海道を視察し、久蔵宅で休憩・食事することが決まりました。
そこで、明治天皇に昼食を出す機会があり、自分が作り上げたお米を昼食に出したのです。
この時に7年間かけて品種改良をおこなった「赤毛」の稲穂もお見せしたという話も残っています。
明治天皇は、久蔵氏の功績をたたえ、お金300円と銀杯を贈りました。これらの出来事は、久蔵氏の努力が天皇にまで認められた瞬間でした。
南河内出身の中山久蔵って?北海道に稲作を広めた偉人まとめ
以上、北海道に稲作を広めた偉人や明治時代北海道のお米事情をお届けしました。
冒頭でもお伝えした北海道を代表するお米「ななつぼし」「ゆめぴりか」は、中山久蔵氏が伝えた「赤毛」の子孫なんですよ。
久蔵氏が作り上げたお米を私達が普段食べているとは、とても感慨深いものです。
弊社も久蔵氏のお米に対する情熱を受け継ぎ、これからもおいしいお米を提供し続けていきたいと考えています。
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