なぜ江戸時代に米騒動が起きたのか?歴史が語る米不足の裏側

お米は、現代の日本人にとって毎日の食卓に欠かせない主食です。

しかし、江戸時代にはこの大切な米が何度も不足し、人々の暮らしに深刻な影響を及ぼすことがありました。

米の収穫が減れば庶民の生活はたちまち苦しくなり、物価の上昇や社会の不安につながる場面が多く見受けられたのです。では、なぜ江戸時代には米不足や米騒動が相次いだのでしょうか。

この記事では、米不足を引き起こしたさまざまな要因や、米騒動が広がっていった経緯、そして混乱の中で人々や幕府がどのように行動したのかを分かりやすくお伝えします。

米不足を招いた二つの要因

なぜ江戸時代に米騒動が起きたのか?歴史が語る米不足の裏側2

江戸時代の日本では、米が経済や人々の暮らしの要でした。

そのため、米が不足すると多くの家庭が困り、町や村の経済活動にも影響が広がったのです。こうした米不足の背景には、主に二つの大きな原因があります。

自然災害と凶作

まず一つ目は、自然災害による凶作です。江戸時代には冷害や干ばつ、長雨や洪水など、気候の変化が農業へ大きな影響を及ぼしました。

特に、「天明の大飢饉」や「享保の大飢饉」といった大規模な災害の年には、米の収穫量が大幅に減り、多くの人が苦しむこととなりました。飢えや病気で命を落とす人も少なくなかったといいます。

下記の表は、江戸時代に発生した主な天候災害と、その影響をまとめたものです。

年代主な災害・異常気象影響・特徴
享保17年(1732)いもち病・冷害西日本で大凶作、米価高騰
天明7年(1787)天明の大飢饉東北中心に米不足・餓死者多数
天保4年(1833)天保の飢饉冷夏・長雨で全国的に凶作
文政7年(1824)干ばつ米の生産量が大きく減少

自然災害が起こると、どれだけ農民が努力していても被害を防ぐのは難しく、ひとたび被害が出れば、たちまち深刻な米不足に陥ってしまいました。

政治と経済の要因

もう一つの重要な要因は、政治や経済の仕組みにありました。幕府や大名が財政難に陥ると、年貢の取り立てが厳しくなり、農民の負担が増えていきます。

米の価格が上がると、商人たちが米を買い占めてしまい、市場が混乱する場面も少なくありませんでした。

また、幕府や大名の政策がうまく機能しなかったり、米の流通が十分に管理されていなかったことが、米不足をさらに深刻なものにしたと考えられます。

こうした米の経済的価値や流通の仕組みについて詳しく知りたい方は、過去記事の「 お米はなぜ「通貨」だったのか?米本位制から見る日本の経済史」 世界初の先物取引って知ってる?堂島米取引所の歴史」をあわせてご覧ください。

米騒動の広がりと人々の暮らし

米不足が深刻になると、米価が急激に上昇し、庶民の生活はますます苦しくなりました。家計が圧迫されると、食事の量や質を減らさざるを得ない家庭が多くなります。

それでも暮らしが成り立たなくなると、不満が一気に高まり、町や村で人々が団結して米問屋や米蔵を襲撃する「打ちこわし」や、年貢の軽減を求める一揆といった騒動が各地で発生しました。

天明の大飢饉の時代には、都市部だけでなく農村でも米騒動が頻発し、米屋への押し入りや米の強奪といった事件が相次いでいます。

幕府・大名・商人の対応

米騒動が拡大すると、幕府や大名、商人たちは対応を迫られました。

代表的なのは、米価の上昇を抑えるための価格統制や、米蔵から備蓄米を市場に放出する「蔵米の開放」などの政策です。

商人の中には、自主的に米を分け与えたり、地域の組織と協力して流通の改善に努める人も現れました。町人や村役人が仲立ちし、騒動を平和的に収めようとした事例が記録に残っています。

ただし、これらの対策を実施しても問題がすぐに解消されるケースは少なく、米価の安定には長い時間が必要となる場合が多かったようです。

江戸時代と令和、米騒動が教えてくれること

現在の日本では、「令和の米騒動」と呼ばれる米不足と価格高騰が社会問題となっています。

2024年8月以降、スーパーの棚から米が姿を消し、買い占めや価格の急上昇といった現象が続き、江戸時代の米騒動を思い起こさせる状況が広がっています。

主食である米の安定供給が社会の安心に直結する点は、時代を問わず変わりません。

日々の食卓を支える仕組みや、食料を守る意識の重要性を、今こそ改めて考える必要があるのではないでしょうか。